映画すずめの戸締まり(新海誠)考察、感想

個人的、監督新海誠の最高傑作。号泣した。ジブリ好きにお薦め、注意点は宮崎駿映画を詳細に理解している事、ある程度の歴史と日本書記の知識がある事が前提になる。かつ一回見ても分からない。構成が作り込まれすぎていて、暗喩の多用量がジブリと同等、10回以上は見ても毎回新しい発見があると思う。

感受性による推察を観客各々の解釈に任せている(正解はないし、恐らく何回見たかで個人の解釈も深まり解釈が変わる)ので、練り込まれたストーリーを小さな一言、一瞬のシーン(それこそ一秒の色の変化、0.5秒の台詞等)から推察する事になる。「何故?」を紐解く事でストーリーが分かる、文学と絵画鑑賞慣れしている人にお薦め。
このタイプの映画はジブリ同様、後世に評価されるのかもしれない。
風の谷のナウシカは、公開当時全く売上になっていない

新海誠作品では、本作以前では言の葉の庭が一番好きだった。
映像の瑞々しさや緑の匂いの演出が素晴らしい(個人的な同ジャンルは岩井俊二)、ただしストーリーが次世代宮崎駿には及ばず…と傲慢にも感じていたが、「これなら次世代宮崎駿になれるかもしれない!」と思って感動したのが本作すずめの戸締まり。

完全に好みの問題だが、あらゆるメッセージを全て説明しては、日本で映画を作る意味がない。
曖昧で抽象的な日本語、比喩、暗喩、和歌を詠み合いその叙情性を楽しめる民族、
複雑で曖昧な心理や事象の抽象表現の上手さ巧みさ、その享受と解釈に慣れている。
常日頃から決して言葉を額面通りには受け取らない。
それが日本の表現のアドバンテージだと思う。
Yes!No!で答えないのが悪い所でもあり、一方もっと複雑で繊細で曖昧な人間心理をコミュニケーションとして伝えられる、それが日本の表現の強みだ。

ある意味、「絵でそう描いてるから」「表情で」「そういうトーンの声だから」「色で」「歌詞で」「音で」と、伝えたい事を省略出来る、読み取る、察する事に長けているとも言える。
全部説明するととんでもないボリュームになるから笑

ハウルのラストを「きみはあれを見て戦争が終わっていると思ったのか!?宮崎駿はきちんと描いているだろう!!」と、インタビューした記者の質問に激怒した鈴木プロデューサーが好きそうな映画だ(分かりませんでした笑)

すずめの戸締まりはハウルの百倍分かりやすい、ジブリ好きは好きだと思う
しかし、このボリュームなら2~3時間はあって良い映画だった笑
短くしないと見てもらえないから仕方なかったのだろう、直接的な言語による説明という説明がない笑 そこが好きだが、人を選ぶ映画なのは分かる

皆どうも「地震は防げない」「災害と人間は無関係」と考えているようだが、では何故被害が大きい地域と少ない地域があったのか?という話で、

簡単に言えば
森林伐採しすぎなければ木の根で土壌の地盤が強い
https://www.rinya.maff.go.jp/kanto/iwaki/knowledge/saigaibousi.html
→だから埋め立て地は弱い、被害が甚大になる

・木の根が強く土砂崩れが起きなければ津波が来た時の逃げ場がまだ多い
森林には洪水の緩和機能もある

・耳が良い動物は災害発生感知が人間や緊急速報より早い
犬が分かりやすくて、人間が雷にきづく数時間前から怯えている

と、「人間が自然を怒らせると災害の被害が拡大する」というのは神話とも言い切れず科学的にそうなのだ。

地震が起きる事を直視してどうするか
https://note.com/noeldata/n/n2329bb9b4086
https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/lfe/bou_topic/jisin/sonae10.htm
せめて家具は固定してあるか?家に消火器はあるか?身体を鍛えているか?
ちょっと3.11を忘れすぎてやしないだろうか?

宮崎駿の意志を現代日本でまだ引き継ぎ、本心から人間を信じごく普通の庶民の平凡な幸せを願う天才クリエイター新海誠が日本にいる事、それが嬉しくて号泣した。令和としての名作だと思う

今の世の中は辛い。人生は辛い、頑張ってるのに苦しい、皆そうだろう。つい捻くれてしまいたくもなる。けれど、人々が変われば社会は良くなる、その通りだ。
皆が優しければ、追い詰められても強く前向きであれば、殺伐とした世の中ではなくなる、傷付く事も減る、人の良心を信じられたら暖かい気持ちで生きられる。そう、戦後はもっと貧しくもっと元気で暖かかったはずだ。取り返しのつかない世界の残酷さ、もう何も信じられない社会の中でただ強く前を向き懸命に国を良くしようと個人ではなく社会の為に必死に働いていた、まるで今のインドのように。結局は人の心が社会を作る。

 

▼ここからネタバレ

 

 

病院でのすずめの台詞、ラストにミミズを鎮めるソウタの台詞がメインメッセージだろう。懸命に生きる事。「おかえり」と言える人がいる事の貴重さ。

恋人でも良い、親友でも良い、仲間でも家族でも同僚でも、猫でも犬でも、ふとすれ違った親切な他人でも良い、「君に会えたから生きた意味はあった」

かつて自分にそうしたかげがえのないものをくれた存在がいたから生きる意味は十二分にあったのだ。

可愛い次世代に希望ある社会を少しでも残そうじゃないか。

 

この何も持たない災害だらけの小さな島国が、チビでひ弱で眼鏡の不細工達が、どれ程絶望から這い上がって来たか。
元からこの国には何もない。日本人の崇高で善良な強い精神力、勤勉さ、日々を楽しむ「祭り」という苦しみ耐性文化、苦しい日々を我慢し楽しみ希望を失わず前向きに乗り切る為に民衆自らクリエイティブになったんだ。紙と鉛筆しかなくても俳句を楽しめる民族。

今も変わっていない。国民はXで人を笑わせバズるのが好きだ。tiktokで踊ってみるのが好きだ。インスタを加工して綺麗なリールを作るのが好きだ。
コロナで苦しくても学生はその中で日々を楽しもうとした、弱い精神で暴動を起こさない、国民全員が強くクリエイティブで精神力が強い。

国民性の強さ善良さ、唯一誇れるのはそれだけだ。それを失えば終わりだ。 

それしかない、国土もない、身体は弱い、石油は湧かない、海底にあるレアメタルは様々な事情で掘れない、災害だらけ、人間の強さ以外何があるのか。コロナ下でも、こんな状況でも、暴動を起こさない強い国民なのだ。

☆前提(現段階での推察、二回目以降変わるかも)
【要石とは】
漂う日本を大地に繋ぎ止める「国中の柱」
日本書紀において神(武甕槌神:日本に地震を引き起こす大鯰を御する存在)が降りた磐座
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%81%E7%9F%B3

【ミミズとは】
大鯰=巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こす
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%AF%B0

【ダイジン、サダイジンとは】
※自分の現段階での推察では、災害(大鯰)を鎮める神を宿した元閉じ師。あるいはサダイジンは藤原鎌足。神に近い存在であり、人心の善悪の影響を受けてしまう存在

ダイジン:武甕槌大神(タケミカヅチノカミ)
雷、剣、相撲の神、地震の神と崇められており、日本に地震を引き起こす大鯰の頭を押さえつける
日本神話を記した古事記の神武東征の際には、その力で悪疫を退散させ、日本に平和をもたらし鹿島の地に根付いた
腕を氷に変える事が出来たと言われている

サダイジン:白髪の壮年像。藤原鎌足(大化の改新を推進し国を治める法律を整えた、公地公民制による中央集権国家建設を目的とし豪族中心の政治から天皇中心の政治へと変えた)と伝えられている
引用:http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1307/

【閉じ師とは】
古事記の記載によれば、日本の第10代天皇である崇神天皇の御世において疫病が大流行した際、
厄災を鎮めるために墨坂神社を創建した際の神主に近しい存在。

引用  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

サダイジン=藤原鎌足=天皇を中心とし国を治めたという暗喩とも辻褄が合う。

藤原鎌足暗喩からの新海誠のメッセージの個人的推察としては、
「国内で足を引っ張り合い調整に時間をかけ、バラバラになっている場合ではない。国全体が優先順位を決め国民同士が協力一致団結し力を合わせるべき有事だ、個人の利害だけで派閥争いをしている場合ではない(豪族社会からの暗喩)」

【すずめとは】
岩戸=天の岩戸
太陽神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)が岩戸に隠れ、世界が暗闇に包まれた

引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8

すずめ=天鈿女命(アメノウズメ)
引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%A1
日本神話で、天照大神が天の岩屋に隠れた際、その前で踊り、大神を誘い出した女神。天孫降臨に五伴緒神として従い、天の八衢にいた猿田毘古神に道案内をさせた。

【ソウタとは】
宗像草太。
宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡にある宗像三女神を祀る神社の総本社であり、宗像三女神は日本書記では、「道主貴」と称される「道の最高神」であり、歴代の天皇を助けて来た。

猿田毘古神とアメノウズメは、新しい日本の体制を開くための和睦を成し得たとの解釈もある。

アマノウズメは一説には猿田毘古神の妻となったとされており、猿田毘古神の代表的ご利益は「交通安全」「万難排除」であり、教育の神として知られている。
=ソウタは教師を志している、すずめを岩戸へ導く役割であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%92%E3%82%B3

ソウタ、すずめのモチーフとなった神は、互いに協力し日本の新たな体制を作り出す。
若く優秀な二人が良い未来、良い国を作ってゆく。全く持って新海監督らしい笑


日本書記を引用したのは、「建国当初から日本とは災害とともにある、その中で人々は強く生きてきた国だ、だから日本人は強い」という暗喩だと思った。

また最近非常に興味深い話を聞いたのだが、なんと、第二次大戦直後、フランスから日本へ移住したフランス人がいると聞き、「ドイツにあれ程酷い事をされたのに何故日本に!?」と聞いた所、
「日本という国は何故強いのか知りたかった」という理由だと聞き、その勇気と行動力に驚愕したのだが、

「それで、その人は日本をどう思ったのか」と聞いた所、
「日本の天皇制は凄いと思った。ハプスブルク家さえ廃れている、これ程続いている国は世界中探しても他にない」と思ったと聞き、

考えた事もなかったので目から鱗で、言われてみればその通りだと思い、新海誠もそこに何か思慮があったのかもしれないと思った。

確かに日本の皇族は、全国民が未だに外交の要として、「こうした方であらねばならない、世界からも国内からも、全国民の尊敬を集めるお方でなければ」と無自覚に敬意を評している事に気付いた。

これだけ国内が多国籍化しても、日本という土地に災害が多い事は変わらない、それをしも天皇陛下が全世界から尊敬を集めるお方であれば、
どのような国籍の方が日本に住もうとも国内がバラバラにならずに済む、陛下はその要なのかもしれない…

良く見ていると、ソウタの家の書物には日本書紀らしき記載があったり、
東京の後戸の場所に「三宅坂」と記載があったり
三宅坂は、明治政府の陸軍の中枢であり、戦時中の参謀本部の代名詞。つまり、国防の要。
戦後はGHQの将校が住むパレス・ハイツになり、占領が解除され昭和40年に土地が返還された後は、最高裁判所が建設された場所。
東日本大震災後は、耐震性が疑問視されている

とにかく細かい描写が多い笑
新海監督は恐らくかなり勉強家で、メッセージは色々あるが、直接言うには…という所を、分かりづらいぼやかした範囲でファンタジーにしているのではないか、とも感じた

白いダイジンは人間の良い心に影響された存在、自分を解放してくれた良心の象徴であるすずめが大好き
黒いサダイジンは人間の黒い心で黒くなってしまった存在、それが叔母の発言から暗喩されている。
だからすずめに元に戻して欲しい
サダイジン「その通り、人の手で元に戻して」
元の姿があるのだ。

そして、サダイジンの方が大きいのが映画の中での世の中の状況...?

ソウタは人間が戦争を起こし自然を破壊しようが、悪い事をしようが、役割として災害を鎮める。
どちらかと言えば、ダイジンにとってはソウタは当初、サダイジンの方が大きい世の中の中では、
人間の為だけに人間だけを守る優秀なリーダー、クシャナに近かったのかもしれない。

だから、ダイジンにとってソウタは「お前は、(悪い心を持つ自然を破壊する人間を守るから)ジャマ」

 

あるいは後述するが、ダイジンは要石の役割が辛すぎて、大好きなすずめと一緒に自由に生きたかった...?

「すずめ、僕の事、好きだよね?」

ソウタの祖父は、サダイジンに「お久しぶりで御座います。あの子について行かれますか」と敬意を評する。

サダイジンは、人間が良い行いをしていれば災害を鎮めてくれる。
だからダイジンは、すずめの良心によって、黒くなってしまったサダイジンを元に戻して助けて欲しい。

サダイジンはダイジンをペロペロ舐め、とても可愛がっている。しかし叔母の悪い本音をサダイジンが引き出し、ダイジンはすずめを傷付けるサダイジンに物凄く怒る。
「うちの子になる?」=血の繋がりがなくとも家族になれる、家族になるとは、もキーワード。
二人は人間の良心と悪い心に影響された、対極となる同じ存在。

すずめに付いていったサダイジンは、すずめの良心、人間の良い心により、黒くなってしまった身体が白くなりミミズ(災害)と戦う。
ソウタはラスト、人間の心の重さがその土地を鎮めていると言う。その土地土地の人間の懸命さが、国を良くする。

映画のストーリーとして「人間の良心の象徴」であるすずめ。
だがそれがごく普通の女子高生である事が、現実的には違和感を持つ。
死ぬ事を「怖くない!」と言う。「私が要石になる!」と言う。
同じく自己犠牲的であるナウシカには行動理由の根拠の設定、立場がある、だがすずめはごく平凡な普通の女子高生だ。何故そこまで必死に命をかけるのか?

母親はすずめを深く愛していた。4歳で母親を亡くしたすずめは、母親を探し、母親に会いたくて扉の中が見えるようになってしまった。

この「扉の中が見えてしまう」「声が聞こえてしまう」「ミミズを止めなければどうなるか、4歳で知っている」事が彼女の行動理由。

誰か一人でも大切な人がいる事、その貴重さがどれ程か、出会った人々が母親を失わず暮らせる社会が何もせず簡単に永続するものではない事を知っているから必死に守る。

「一人は怖い」「大切な人に先立たれ自分一人が世界に取り残される事、それは死ぬよりも怖い」その恐怖が彼女を動かす。

叔母に何を言われても、愛するソウタを突き刺してでも、どうしても「おかえりが言える世界」を守りたい。

すずめにとって大切なのはソウタだけではない、ダイジンを失っても涙を流す。一人は怖いと4歳で知っているから、出会った人々全てが貴重。

二人が守りたいもの、それがラストに一瞬人々の声として流れる。「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」
人々の平凡でごくありふれた、しかし当たり前ではない平和な生活。

だからこの台詞が、映画の中で何度も繰り返される。
「行って来ます」「おかえり」と言える人が一人でも生きている事の貴重さ稀有さ。
そう言いたいのに、言えなかった人達の無念と哀しみ。
二人にはその声が聞こえる。

すずめは叔母に「行ってきます」と言う。「ただいま」と言う為に。

大人の自分が、子供の自分を抱きしめ癒す事も出来る。
インナーチャイルドを自ら癒す、その力が人間にはあるというドライブマイカーと同じテーマまで盛り込まれていた。
一番大切なものを亡くしても、また出会える、また得られると。
震災で代わりのいない家族、一番大切な人を失った悲しみを背負わされた人への共感と、哀しみの中にある人へのメッセージ。

また、天気の子のインタビューの中で、新海誠は「気候変動は加速している。でもね、若い世代は意外とそれに順応していくんじゃないかと思っているんですよ」と言っていた。

新海誠は、日本の若い世代の力を強く信じている。確かに、著名人の中でも優秀極まりない若手が一部に出てきているのを感じる。

最近Z世代のトレンド調査+実際23歳に今何が流行っているか聞いたのだが、本当にSDGS実践意識が当然のように高い。

流行しているのは
「量り売り(フードロス対策、食べきれる分しか買わないカフェのケーキ)」
「大学生の有志による、ロータリーに置かれた英語表記のゴミ分別用段ボール」
「企業の社会貢献度を学術的に評価する人工知能システム」
「お洒落なエコバッグ」
「Be Real(気の合う友人のリアルな口コミしか信用しない、無駄なものを買わない)」
「ソバーキュリアス、マイボトル、リサイクルボトル」
自然派食材、玄米、自然派カフェランチ」
ステマ嫌い、大企業の建前のSDGS活動アピール嫌い」

「お洒落なトレンド」「可愛い」「それがクール、カッコイイ」として本当にSDGSが都内を中心に流行している。

だからこそ、ごく普通の女子高生を、まるでナウシカの役割かのように描いたのかもしれない。

恐らくこの映画は、若年層の方が共感を呼ぶ。
新海誠自身が老害ではない、そういう人間だからだと思う。

すずめがソウタが気になる理由もラストに描かれている。母親を亡くした4歳のすずめは母親を探し常世に迷い込み、そこで未来のすずめとソウタに出会っていた。

一目惚れではなく、記憶にないながら「一番辛かった時に出会った人」「どこかで会ったことがある気がする人」、それがソウタだった。

しかし、「すずめの子供になれなかった」とは何なのか?もう何回か見ないと分からない
今の私の解釈だと、ダイジンの発言、行動には理解しきれていない点もある。
武甕槌神が降り立つ要石、ミミズ(大鯰)を鎮め大地を平定する役割をソウタに移した理由は?
もしやダイジンとは、武甕槌神自身ではなく、要石として神を自分に降り立たせただけの元人間...?
ソウタという人間が要石になれるのであれば、サダイジンもダイジンも元人間の可能性が出てくる。
ダイジンは要石の役割が辛く、自分を解放してくれたすずめが本当に大好きで、自由になりたかった...?

もしやサダイジンはソウタと同じ閉じ師であり、だからソウタの祖父と知り合いであり、だからソウタが要石になった時祖父は「それで良い!」と言った...?

ひとつの可能性として、こう考えると泣いてしまうのだが、ダイジンとは太古の昔、まだそうした地方の風習があった時代に「神を降ろす人柱」にされた、ほんの幼い小さな子供、あるいは子猫なのではないだろうか?

人間の悪い心が大きい中では直に影響を受け災害を起こし、でも本当は災害を鎮めたい、だからすずめをいつも扉へ案内する。
どこまでも無邪気に、「うちの子になる?」と言われたら素直に信じてしまい本当に嬉しい。ぼくにも帰っていいお家があるの?すずめ、大好きと。

そう考えると、すずめが要石になるくらいなら僕がと、要石に戻ったダイジンが可哀想で泣けてくる

あの木彫りはどこかに似たモチーフの伝承があるのか…

もし仮にサダイジンが藤原鎌足の暗喩であったなら…?と、色々複数想像しながら、細かく細かく台詞を聞いてゆくと謎解きのような一言、シーンが散りばめられていて、恐らく最終的にどういう事だったか解釈に辿り着く。そこを観客の想像に任せている。
そこも宮崎駿と非常に似ている。
千と千尋の電車のシーン、あれは宮沢賢治か、つまりあの影は」とか、そういう何回も何回も見るとより面白い映画が好きな人にはたまらない笑

あのミミズはもののけ姫のタタラ神、白い犬神もサンの育て親かあるいは千と千尋のハク(川の神様)、すずめの自己犠牲精神はナウシカ、と、ナウシカもののけ姫を彷彿とさせるシーンが多々。
つまり、災害を起こしているのはジブリにおける自然(の神)、そしてそれは人間のせいであるという暗喩。

更には車に乗るシーンは魔女の宅急便松任谷由実ルージュの伝言と、これでもかな宮崎駿リスペクト(笑)
車の赤と風景の水色も、紅の豚を想わせ、そのシーンの叔母様の口紅の色もジーナさんの描き方に似ていた。
食べ物が美味しそうなのもジブリ色。

合間に入るジャズもミスマッチだが逆にエンターテイメントで良い

映画に出てくるバーでの酒のボトルがサントリーである事、SNSでのポスト、地震警報に慣れすぎてまるで動じない学生達、双子を育てる母親の預け先が休みな事、双子の面倒を見るすずめと双子とのやり取り、
上げだしたらきりが無いが、全てが現代令和日本としてリアル。

この映画は新海誠自身が地方を周って撮ろうと思ったとインタビューで見たが、
一体どれだけ取材をしたのか、あるいは新海誠自身が本当に人が好きなのだろうと思った。

彼はファンタジー作品を撮りながらも、人間を自分勝手に理想化しない。現実の人間を見て、現実の人間を愛している。


「自分に都合が良い、こうあって欲しい女性」
「自分に都合が良い、こうあって欲しい子供」
「自分に都合が良い、こうあって欲しい若者」
「自分に都合が良い、こうあって欲しい社会」
「自分に都合が良い、こうあって欲しい地方の人々」

ミドル世代の男性ながら、彼にはそれがない。自己中心的な発想がない。
それをしもなお純粋な心で、人間の良心と強さを信じている。
あくまで人を愛し、人の良心を信じ、ごくごく平凡な庶民に寄り添い懸命に生きる意味、希望を提示し励まそうとしているのが映画から良く分かる。

要石は人間の良い面も悪い面をも引き出すし(と言うか人間の心に要石が影響される)、人間の悪い面が増えれば災害を起こそうとする。
叔母様の「悪い本音(すずめがいなければ恋愛出来たのに~)」をも引き出す、でも勿論叔母様には良い本音もある、それが普通の人間だ。

人間のせいで象徴(それがオウムか、要石か、各々比喩は違うが)が災害を起こす、しかし人間の力(努力)で鎮める事も出来る、
そこまでは宮崎駿と変わらない。

しかし違うのは宮崎駿は時代の問題で、今ならまだ人間の努力で避けられると、避けようとして絶望した。
だから今宮崎駿は一人ゴミを拾っている。地球を破壊しては、温暖化し津波が来ては、人間も生きていけないと。

新海誠は、起きてしまった3.11、それをしもなお懸命に生きる人々、避けられなかった現実を受け止め、彼らの悲しみに寄り添おうと、それをしもなお前向きである。

辛い現実、悲しい災害、それをしも人間が変われば、すずめのように美しい心で努力すれば、要石は災害を起こすのを止める。
「君(人間)の手で元に戻して(人間の良い心で、災害を起こさない良い要石にして)」

テーマは、
「今を生きる人々の苦しみ、悲しみ、現実に寄り添いたい」
「絶望しなくて良い」
「未来は希望に溢れている」
「僕は人々にはその力がある、善良さ強さがあると本心から信じている」

絶望しなくて良い未来は希望に溢れている、懸命に生きる事、それは素晴らしい事なんだと言う前向きさ。

こんな時代にも関わらず本当に純粋な心を持ち続けている。まだ人間を信じている。
彼の描くキャラクターは恋愛においても何においてもとても純粋で誠実、新海誠自身がそうだからだろう。こんな誠実な心のままミドル世代になれた、地道に粛々とそう生きて来たのだろう、つくづく素晴らしい人だと思う。

だから、SDGSへの関心が全年代で一番高い学生や20代前半(実調査データ根拠だが、人生これからなのに津波で死んだらたまったものじゃないので当たり前である)に刺さる。

新海誠は、所謂保身自分勝手老害おじさんの要素がひとつもないから学生にヒットするのだと思った。

細かい所で言えば、今若年層に流行している「エモい、チルい、ノスタルジー、曖昧なもの(昭和らしいイラスト、昭和らしい曲)」の流行理由、深層心理は、
「希望が持ちづらい世の中の中での、豊かだった日本への憧れ」「カテゴリ分けされたくないモヤモヤした複雑な心理、曖昧なものへの共感」
だからYOASOBIのイラストレーターは江口寿史に似ており、シティポップが流行する、
映画の中でドライブ中に流れる音楽はそうした若年層心理も抑えている。

後半ラストの展開は確かにスピーディーすぎて理解が難しいが、恐らくは現代の若年層はタイパ文化があり、短くしないと見てもらいづらいので仕方なかったのだろう。

新海誠監督、とにかく人間が出来ている。

新海誠監督はインタビューで、君の名はのテーマを「運命の人は本当にいるんだよと伝えたい」と語っていた。

驚愕すべき純真なミドル世代だと思った
一体どれ程純朴な恋愛をして、そのまま一途に結婚して今なお幸せな夫婦なのか…と、つい思ってしまった。

新海誠と言う人間にとっては、恐らくは「恋愛とはそういうもの」だと思っているからなのかもしれない…
微塵も捻くれていない稀有なミドル世代、彼にとっては普通の事なのだろう…

何が凄いって、今この時代に悲観的ではない、現実を直視しながら前向きである、それが本当に嬉しかった。
平和ボケした我々には直視する勇気もなく考えないようにするか、絶望するか、インドのようなエネルギーはない。

「東京直下型地震が確実に来るって言われてるけど...」「世界で戦争が起こっていて、日本は全然他人事じゃないけど...」「何となく分かってる、だから前向きになれない、どうする事も出来ない、考えたら恐ろしいだけ、だから考えたくない。世の中や人生を良くするって、何を頑張ったら...今がちょっと楽しければ良いかな...趣味とか...」
大衆が刹那的、どこか悲観的、だから現実逃避する、そうなっても仕方ないご時世。

世界は構造が残酷で、人間は歴史的に森を伐採し、仕方なく畑に食べ物を探しに来た家族意識が強く生涯一人の伴侶しか持たない狼を駆除し、品種改良した犬を愛し、にも関わらず捨てたりする。愛する飼い主に会いたくて健気に鳴くシベリアンハスキー達はかつて大量に保健所で殺されたと聞く。

人間は滅びてもこの世界では何も文句は言えない、かつての恐竜のように。けれどその世界の構造には悲しくて辛くて目を背けたい。

そんな時代に新海誠は前向きに人間を、私達を信じてくれた。君達は自分が思うより善良で強い、大丈夫だ、と。

この令和にまだ諦めていない、宮崎駿が生涯命をかけ訴え願い続けた人間と自然の共存、ごく普通の、庶民達が平和に暮らせる世界、そのSDGs新海誠は受け継いだ。

宮崎駿は今まさに起きている世界中での戦争、現代日本人が苦んでいる社会、それだけは避けなければならないと、何十年も訴え続けた。

それは意識が高いわけではない、間近に迫れば人々はその凄惨さに耐えられず、恐怖に震え皆苦しむ、それはかつて本当にそうだったんだ、もう二度と誰も経験してはならないんだと。

 

けれど、豊かで平和な時代に生きる人々は、何故ナウシカがペジテとトルメキアを止めるのか、何故シータがゴンドラの言葉をムスカに伝えるのか、何故風の谷はトルメキアの侵略支配を最終的に逃れられたのか、自分達が今何をしたら未来の最悪の事態を避けられるのか、どれだけ訴えかけられてもピンと来ていなかった。

風の谷は国民一人一人が逞しく強かった、老人ですらコミカルながら戦車を奪い戦った。しかし侵略はしなかった、ペジテの姫を助けようとした。

巨神兵があるのに使わず、ナウシカはバランス感覚に長け戦う事も耐え忍ぶ事も出来、ユパ様は判断力交渉術に長け、
一言で言えば全体視野を持ち判断力があり優先順位を理解していた。

風の谷の民も、谷の為の優先順位として捕虜にもなるが、タイミングを待ち戦車を奪い、世界の為、谷を自衛する為ならば不屈の精神を持っていた。「わしらは水と風の方がええ」。
その結果としてペジテもトルメキアも風の谷の永世中立を認める結果となった。

当時から、小さな積み重ねで何をしなければいけないのか、宮崎駿以外の人間達には分からなかった。

大多数が何故そうしなければならないのか分かっていなかった、恐ろしい事になると優先順位を理解していなった。

何故グレタちゃんがああ言うのか、それは温暖化は氷河を瓦解させ津波を起こすから、その恐怖は目の前に津波が来るまで人間には分からなかった。

経済発展は勿論最重要だが、地球が滅びたらそれ所の話ではない。
人々が幸せに、毎日安心してご飯を食べられるように出来る事は何か、何を頑張れば凄惨な経験をしないで済むか、
宮崎駿手塚治虫はその勉強量知識量から、それを世界中に訴え続け、自分以外の人々の幸福を願い続け、絶望し続けていた。

彼らは、それが出来ない個人の事情も理解していた。個人個人の事情に寄り添い、手塚治虫に至っては、あの東条英機すら「国民がご飯を食べられているかどうか、毎朝ゴミ箱をチェックしていた」と知っており、そういう一面を持つ人間だと描いた。

宮崎駿手塚治虫のような教養深いマイノリティがいくら訴えても大衆は動かなかった。
長期的視野がなく、「まさかこんな時代になるとは」と思っていて、
教養層マイノリティがいくら訴えても手遅れになるまで実感がなかった。

大衆の多数派がやらない事はそれが当たり前となり、面倒だから、自分の利益にならないから、としなかった。
そして今の恐ろしい社会に自業自得で自分自身が苦しむ事になった。
その事を、宮崎駿は自分には何も出来ないと悲しみ絶望し続けた。

けれど若い新海誠はまだ諦めていなかった。

新海誠も現実逃避をしない。昔は良かった、と逃げない。東京で成功した自分には地方やこの国、世界などどうでも良い、自分さえ良ければ良いと思っていない。

現実の今と現代の若者、現実の人々、起きている悲惨な出来事をその人達に寄り添って理解しようと直視している。
にも関わらず純粋な美しい心で前向きに人を信じ想っている。

最近、とある人に怒られた事を思い出した。
ある企画を考えていたのだが、フォーラム21にも参加する彼は私の企画を聞き、

「典型的な勉強自体が好きな人間が陥る罠!!ヒアリングをしたって、その人達はマジョリティか?皆が大学に行けるのか?
君は地方を見て回ったのか?彼らの仲間に入れてもらって、話を聞いたのか?人々に必要なものを届けたいんだろう?
自分では自覚していない本当に欲しいものなんて、仲良くならなきゃ言うわけがないだろう!
僕はこの間復興支援で東北を見てきた。彼らは強いよ、本当に強い。感動したんだ」と言われた。

新海誠も、同じように全国を回ったのかもしれない、と思った。

新海誠という人間は、酸いも甘いも噛み分けた謙虚で温厚篤実な大人ながら、なんと優しく美しい誠実な心を持つのだろうと改めて大好きになった。
思い遣りに溢れ、人間が好きなのが良く分かる。

この映画を見て、「どんなに辛くても、ただでさえ闇落ちしても仕方ない時代に、これ以上自分が凄惨な経験をしないで済むように生きよう」と励まされる人がいたら良いなと思う

少なくとも自分はそう思えた、世界情勢や現実が不安で希望が持てず辛すぎて、つい捻くれて闇落ちしそうな時に
「いや、やっぱり違う、これ以上凄惨な経験はしたくない、自分が幸せになりたいならこうすべきだ」と、正常な思考に引き戻して欲しい時に見直したい映画。

令和としての名作だった。君の名は、は良く分からなかったジブリ好きにも勧められる。

 

ジェイコブコリアーという才能

個人的な主観では、ジェイコブコリアーの音楽はある種科学者的、研究者的だとも感じた。
非常にクレバーな指揮者。あるいは魔術師。
 
彼の軸にあるゴスペルは元々はアメリカ南部のプランテーション農業時代のアフリカ系の為の音楽であり、
当時アメリカ在住のイギリス人はイギリス国教会から迫害され米国へ逃げたピューリタンも多かった。
 
ゴスペルの発祥はアメリカ南部における支配側による、被支配者に対する教会設立に起因しており、かつピューリタンと国教会には明確な宗教感の違いはなかった。

 

当時英国本土のイギリス人には、当時のアメリカにいた支配者層程の差別意識がなく、ブルースとともに逆輸入される形でイギリスはゴスペルを評価した(これが後にR&B、ソウルへと変容し、更に皮肉な事に第二次大戦後植民地が崩壊したイギリスは経済力が低下、ルーツが奴隷にある音楽がイギリス人に共感されるようになる。これがブリティッシュロックとして更にアメリカに逆輸入される事になる)。
 
ジェイコブコリアーの多重録音にはこの歴史があり、アフリカ民族音楽要素が出てくる。
彼の歌詞にはクリスチャンの神が引用されており、Favorite Artistにはディアンジェロを挙げている
 
多種多様な音楽をイギリスにおける「weird」、ちょっと風変わりなものをクールとする感覚を元に再構築、
ある曲はハワイアンをベースとしてLisa Loebに代表されるカントリー調アコースティック要素、
ただし歌に関してはR&B要素はなく多重録音に適したテンポ、かつ感覚即興でやるタイプではなく非常に工学的に構築された理論を用いて表現している。
 
クリエイティブに対して非常に純粋な御仁なのだと感銘を受けた。

ゴスペルと多重録音+Weirdが彼の個性となりながらも曲により毎回色を変える、彼の面白さはその魔術師たる他者の音楽を指揮し作り上げるクリエイティビティもさることながら、次に作られる音楽はどんなものになるか分からないワクワク感。

彼の今後に注目してゆきたい。

2020年、邦楽界が変わった。 #常田大希 #藤井風

常田大希と藤井風。

坂東祐大のように米津玄師の裏に回らず、挾間美帆のように自ら歌う事はなく、

「これまでクラシックの領域にいた人間達」がJPOPに歌手として参入して来たのはこれまでに本当になかったと思う。

 

2010年代、20代を中心に爆発的な話題となったリアリティーショーでは、洋楽、邦楽問わず、様々なアーティストが挿入歌として起用され、その代表格がTaylor Swiftだった。

 

一方、Nujabes七尾旅人Suchmosと言った邦楽アーティストも多数起用され、このSuchmosのStay tuneが爆発的なヒットとなり、これまでの邦楽の「主流」の流れを変えた。

 

この流れの中で、ブラックミュージックをリスペクトする星野源のヒットがあり、

 

満を持して常田大希が台頭した。

白日のリリース時の衝撃は凄かった。

まず最初に井口理の美しい歌声とともにクラシック、ワルツのサウンドで注目させ、そこからブラックミュージック足してゆき、更にヒップホップ、R&B、更にはクラブサウンドを混ぜてゆき、中間の常田大希のギターは王道のロックそのもの。
こんな複合要素を勢喜遊の完璧精密なドラムでサビのリズムに忠実に添い続ける事で纏め上げ、洋楽とクラシックをJPOPにしてしまった。

「クラシック畑の人間達が、JPOPをやっている!」という衝撃は本当に凄かった。


常田大希は兄とともに、正当に学んだクラシック、オーケストラ要素を邦ロックに自ら持ち込み、

その上でここまで緻密に計算し尽くした楽曲をリリースする「プロデューサー兼戦略家兼編曲家兼歌手」は邦楽界にはいなかった。

 

緻密に計算されすぎている完璧主義という意味では椎名林檎が近いが、彼女の知性と教養はまた別の分野のものだった。

 

彼はその後「自分が良いと思うものと、日本のマスに好まれるものの折中案」を常に模索し続け、日本の若年層へもリーチ、評価を盤石のものとしてから海外へ日本のファンを連れてゆく、

 

「日本人の育成」をしていたのではないかと、楽曲を聴く度に感じていた。

 

そこへ来て、藤井風である。

彼を一番最初に知ったのは椎名林檎をカバーした「弾き逃げ丸の内サディスティック」であったが、この衝撃も凄かった。

 

なんと、古びたガタガタのキーボードを強い運指で弾く事で起こるノイズを、打楽器音として成立させてしまっていたのだ。

 

衝撃を受けた私は彼の音楽を聴き漁り、ショパンの革命に辿り着いたが、これがまた凄かった。

 

コンクールでは絶対に評価されない独自解釈。

「革命」であるにも関わらず、音に一切の怒りがない。あるとしたら嘆き。

大袈裟だが、バベルの塔がガラガラと崩壊していくのをまざまざと眼前に見ながら、あたかもそれを憐れみ哀しみ嘆いているかのような演奏であり、

 

科学者が発明した膨大なアイデアを一斉に披露され、脳が情報過多で混乱するような印象すら受けた。
 

これは凄い事になるかもしれない、と、他の様々なアーティスト同様に注目していたが、彼の凄い所は、ただのカバーアーティストではなく、そのセンスを楽曲作りにで発揮してしまった所だった。


欧州ルーツのクラシカルなピアノに、米国R&Bベースの歌声を乗せ、更に歌詞は一見歌謡曲的とも感じられるアジアルーツの死生観、それを本人が他意なく天性のセンスとそれをやれる各実力で融合してしまう。

 

あくまでもボーダレス、本人は恐らく無自覚だろう。

 

幼少期から常にインターネットが傍にあり、国、年代、人種、ジャンル、全てを超えてどんな音楽にも当たり前にアクセス出来た時代が産んだ令和次世代を象徴していると思った。

 

生い立ちの関係で黒人音楽が当たり前にあったエルヴィスプレスリーの進化版に、ビートルズを加え更に令和らしい新しさが加わったかのような...

 

邦楽は本当に面白くなってきた。

他にも紹介したいアーティストが枚挙に暇がないが、彼らの切り開く未来が楽しみでならない。

白は200色あるのか、黒は300色あるのか? #奥深い #色

 

結論から言うと、

白も黒も300色「以上」あると思う、しかし白は200色だと言い切れる人間も黒は300色だと言い切れる人間もいないと思う

と言うのが妥当な所だと思われる。

これを説明するにはまず、普段色の知覚の原理の話から。

普段我々は様々な色を認識しているが、実は物体の色と言うのは、物体が光を反射した光を色として認識している。

ある素材(物体)が全ての光の波長(太陽光と言うのは全ての色を含んでいて物体に吸収される色以外が色として視認される)を吸収する性質だとその物体は黒に見える。
逆に、可視光に含まれる全ての色の波長を反射する素材(物体)は白に見える。

(光の波長ごとの色と言うのは虹が馴染みやすいと思う)

夜電気を消すと全ての物体が黒に見えるのは各々の物体が反射していた光自体が消えているからで、
照明によって同じ物体の色が変わるのはその照明の光が含んでいる色が違うから。 

素材に照射する光の種類によって同じ素材(物体)の色が変わるのはその光が含んでいる色の割合が違うから(分光分布と言う)。

分かりやすく言えば海と言うのは青以外の太陽光の色の波長を吸収しているから青に見えるし、日没後の深夜には反射する光がないので黒に見える。

光の波長による混色、色の見え方を加法混色と言い、
光の三原色R(赤)、G(緑)、B(青)を混色すると白になる。
ブラックホールに代表されるように、何の光の波長も存在しない場合、黒になる。

これとは別に減法混色と言う考え方があり、
これは光を反射した物体の色(絵の具など)の混色の場合の話であり、

色の三原色、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(イエロー)と言う、各々それ以外の色を吸収する性質を持つ物体を重ねると、光が含む全ての色の波長を吸収し反射しなくなるのでその物体は黒に見える。

プリンターのインクがこの種類なのはそのせい。インクも物体なのだ。

光そのものの色の混色で考えるか、光を反射した物体の色(絵の具とか)の混色で考えるかが違うだけで、黒も白も同じく全ての色を含んでいる。

Webサイトなどは印刷を前提としておらず反射の工程がない光の三原色で考えるので(電磁波の波長自体の色を見ているイメージ)、光の三原色RGBが基本になる。

完成形の色を印刷物で知覚する事が多いIllustrator色の三原色のCMY+Kが基本で、
完成形の色を光で知覚するWebサイトな事が多いPhotoshopが光の三原色のRGBが基本なのはこのせい。

つまり、普段我々はテレビやYouTubeは光そのものの色を知覚していて(加法混色)、
目の前にある衣類や人の肌色はその物体が光を反射した色で知覚している(減法混色)。

なので、部屋の光を暗くすると衣類の色は変わるが、テレビ画面やゲーム画面の色は変化しない。
(明度差による心理的な知覚の違いはややこしくなるので割愛)

減法混色で考えると、
光に含まれる全ての色の波長を反射すれば物体は白に見えるし、
光に含まれる全ての色の波長を吸収すればその物体は黒に見え、

減法混色(物体の色)の混色の事例を分かりやすく割愛すると、

シアン(青と緑)の波長のみを反射(赤の波長を吸収)する物体はシアン、
マゼンタ(赤と青)の波長のみを反射(緑の波長を吸収)する物体はマゼンタ、
イエロー(赤と緑)の波長のみを反射(青の波長を吸収)する物体はイエローに見え、
逆にイエローの波長を吸収する割合のみ高い物体は補色のパープルブルーとして知覚され、

それらを全て均等に重ねると全ての色の波長を吸収する黒に見え、
何も重ねないと全ての色の波長を反射する白として知覚される。

極論色と言うのは、素材(物体)が持つ光の吸収と反射の特性、
光の種類や強さやその光が含む色の中で何の色の波長を吸収し、何の色の波長を反射するかの割合で決まっていて、
それにより色数のバリエーションが知覚されている。
(厳密には更に輝度照度だったり、人間の目が起こす錯覚や調整機能、色を認知する脳の個人差だったりも関わって来るので更に複雑なのだが)

白も黒も例に漏れず、その物体が光に含まれるどの色の波長を吸収、あるいは反射しているかによって色数のバリエーションが知覚されているので、

例えば殆どの光を吸収しているがほんの僅かに紫の波長の光(あるいは補色の黄緑の波長)を反射している物体は紫がかった黒色に見えるし、

殆どの光の波長を反射しているんがほんの僅かに紫以外の波長の光(あるいは補色の黄緑の波長)を吸収している物体は紫がかった白色に見えるし、

何の色を吸収して、何の色を反射しているかの割合、
その吸収、反射している色の波長の組み合わせと割合で黒も白も何通りにもなる、そこに名前をつけた色とつけていない色があると言うイメージ。

他にも、
輝度=物体の面に反射された光がどの程度目に届いているか、
照度=光源が物体の面にどの程度到達しているか、
と言う概念なども色の知覚には関係していて、
まあ簡単に言えば服に当たる光の強さとか、物体と光源の距離とか、PC画面の輝度調整で色って変わるよねみたいな話である。

更に光自体が白色でない場合もあるわけで、
例えば白い部屋に青っぽい明るい光を当てるか、オレンジ系の間接照明を当てるかで同じ白も違う色に見えると言う話もあり、

これは白く見える物体は基本的には全ての光を反射するのだが、
そもそも白色光を事前にカラーフィルターなどを通して青以外の波長を吸収して青の波長のみを透過させてしまえば、

物体に当たる光自体が青の波長しか含まないので、それを物体が全反射してもその物体は青に見えると言う原理に基づいている。

真っ白な服に真っ暗な部屋でカラーフィルターなどを使って事前に赤以外の色の波長を吸収した赤いライトを当てると白い服が赤っぽく見えるのは、
光自体が赤の波長しか含まないので、それを服の素材が全部反射するから赤っぽく見える。

これが少しだけ薄暗い場所(ライブステージとか)だったりすると、白色光も多少当たっていてかつ赤しか含まない光も当たっている状態なので、これも素材の特性に依存するが、割合の問題でピンクがかった白に見えたりするよう演出する事も出来る。
ここに人間の目の自動調整機能みたいな話も色の知覚には関わってくるので、とにかく色は奥深いしややこしいのだ。

では何故「アイボリーの白」と言われればピンと来るけれど、黒は一色だと思う人がいるかと言うと単に認識の問題で、
日常的に意識して種類に馴染みがあるかないかだけだと思われる。
例えば、「ヘアカラーでパープルブラック」、と言われればピンと来る人も多いのではないだろうか。

「赤味がかった黒」や「青味を帯びた黒」のような無彩色以外の有彩色も人間は黒として知覚しているので、その色相と彩度のバリエーションでも黒の色数は増える。

では何故誰も「色は全部で何色ある!」と言えないかと言うと、色の知覚には人間の脳の中の「色知覚」の領域が関係していて、この領域が極めて複雑多様で個人差も大きいので、定量的な評価が難しいから。

個体差で言えば加齢による眼のコンディションも知覚に関係するし
白色人種のブルーアイの方が黄色人種の黒い目より赤の識別感度が4倍あるしと、
他にも人間一人一人の生理的・心理的要素も関係するし、つまり人によって色の見え方が違うのでなかなか基準の統一と断言が難しい

人間が知覚出来る色も条件が良くて750万色だとか、物理学者ジャッドによれば200~1000万色だとか(この人が分類した英語の色名は7500色)、
結局何色なのだ状態で結構難しいと思う。
この状態なのでじゃあ白は何色だとか言える人がいるかと言うといないというのが実際の所かと。

加えて、各業界ごとに使用されている色数は把握しきれない量であるというのもあり、

例えば印刷業界では同じ黒でも墨ベタ(黒インキ100%)と言う色があったり、
加法混色で黒にシアン60%マゼンタ40%イエロー40%のインクを重ねて色に深みを出すリッチブラックと言う色があったり、

染色業界ではロット(生地を作った時期)の違いで同じ染め方をしても発色に違いが出たり、
染色時の環境(温度や湿度)で同じ染料でも色合いの違いが出たりと、

ザッと見同じ黒だけれどもよーく見るとやっぱり風合いが全然違うみたいな色の違いも各業界各分野で起きていて、
それがそれこそ染め物の職人芸による色合いだとか、カメラマンの職人芸の撮影技術による色合いなんかになると数値化なり定量化なぞされていないので色数をカウントしきれないみたいな事も起こっていたり、
色数を数え出すとキリがないし統括する指標が非常に作りづらい。
専門的な色彩の第一人者でも全部把握するのは不可能じゃなかろうか。

前述の理由から、本当に人間が全部で750万色も識別出来るなら、白も黒もゆうに200色以上あるだろうと想定出来るだけで
(RGBの値から計算すれば少なくとも多くの人が白と認識する色が200色以上はあるのは証明出来ると思う)、
「どこまでが白のグループ」と言う科学的な定義も知らないので、正確に白は200色だと言うのは聞いた事がない。

正確には白も黒も色相彩度明度のバリエーションに更に色々な要素が影響して、200色以上知覚できると想定される、くらいが正しいかと思われる。

ただ、そう長々とややこしく説明するわけにもいかないので、ここは「白は200色ある、黒は300色ある」と言った方が分かりやすいし面白い(~色ある、と言う日本語なら~色以上ある、とも定義出来るので)、と言うバランス感覚に優れていたので、ここまで話題になったのだろう。